Thursday, November 23, 2006

デリカシー

「さびしさ研究所」とグーグルで検索すると、ここではなく、いくつかのものがあがってきます。
そのうちのひとつは、クラムボンとかいうグループの人がやっている何かの番組(おそらくラジオ)に関するものだと思う。
それに関して、どうしようかと思ったけれども、やっぱり書くことにする。
いつか、誰か、関係者がコレを見つけるのもまたいいでしょう。

「さびしさ研究所」は今から10年くらい前に私が考えたアイデアです。
私はそのアイデアをまとめた作文、企画書というのはほど遠い作文を、ある人物に見せた。
その人はそのアイデアをとても気に入って、何かできないかという話になった。仕事に関わる人物だった。
コレ以前にも、友人にはそのアイデアを話していた。何かをやりたいと。
そのときにすでにそれはウェブサイトとして何となく考えていただけども、
今みたいに簡易に作れるブログもなくて、サイトを簡単に作れるイメージもなかった。
ま、それはともかく。
そんなこなんで少し時間がたち、個人的な事情で仕事を休んでいる間に、
「さび研」はちょっと動き出した。それはラジオの番組になった。深夜枠の。
私は仕事を離れていたこともあり、自分が何かを実際にすることもできないので、
その名前を使うことなどは、まぁいいですよ、といった適当な返事をした。
やめれば良かったよ!! 後になって思えばね。使わないでくれ、と、言えばよかった。
その番組は、私が考えていた「さび研」のイメージとはまったく違うものになった。
ありがちな深夜トーク。いやし系。「さびしいのって何かいいよね」的な。うー。
事情をあまり知らない知人は、その番組が大キライだと言った。
私は返答に困った。自分は関知していないのだ、と説明した。

まさか、それがまだ生き残っていたとはね。
それだけで終わってくれることを私は願ったのだけど。

その後、そんな動きとはまったく別に、やはり私は友人と「さびしさ研究所」のサイトを作った。それは最初にこのアイデアを温めていたときに話していた友人とは別の友人だった。ただし、ほとんど機能することなく、それは頓挫してしまった。
なんというか、「さび研」のツボを理解してもらうのは、けっこう難しい。
おそらくセンチメンタルなものはあまりここにはないのだよ。いやし系でもなければ、「さびしいのって、何かいいよね!」的なアートな気分でもないのだ。
いってみれば、何のためにさびしいのか、さびしさに何か意味はあるのか、いったいすべては何なのさ、的な、
なぜに世界には色はあるのか、みたいな、そんな部分なんですよ。

ひとりなのはさびしい。でも、ひとりじゃないのもさびしい。
ひとりじゃないくせに、ひとりなのがさびしい、というかな。
ひとりなくせに、ひとりじゃないのがさびしい、とでもいうかな。
孤独とか、退屈とか、そんなこととの関係で考えていってもいい。

ともかく、そんなわけです。
いつか誰か気づいてもいいよ。私は言える。「さび研」を考えたのは私です、と。
まぁあなたの考える「さび研」もいいでしょう。
でもやっぱり、「さび研」は宇宙を目指しますから。
つまり、生き物がすべていなくなったら、さびしさは無くなるに違いない。特に、感傷的なさびしさはね。
でも、宇宙はさびしくて、そのさびしさを外から定義するモノがいないというさびしさを私たちはイメージすることができる。
それを愛することさえできる。
それが元祖「さび研」のツボです。

そういえば、ある記述に「怒りは純粋な感情ではないそうです」というのがあった。それは心の底にある別の感情を隠すための感情なんだ、と。なるほど。
きっと隠そうとしているのは、「さびしさ」だと私は思うよ。

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